福山歩兵第41連隊
『永遠の四一』出版のご案内

備後・福山から多くの若者が出征し、多数戦死したその歴史の延長に現在の福山市の発展があることを忘れてはなりません。本書は昭和の時代に自費出版された41連隊の将兵の手記を復刻させ、戦場という極限の状態における人間ドラマやエピソードを多数紹介しています。そこに当時の日本人の精神性の高さを感じずにはいられません。ぜひ多くの方に知られざる郷土の歴史を読んでいただければ幸いです。

また、可能な限り生存者に聞き取りを行い、実際に海外の戦場跡を訪問して慰霊を行ったり、現地住民との交流や一緒に遺骨収容作業に取り組んだりした内容や、日本側の記録が残っていないため国会図書館にて調べた米軍の記録等も記載しております。

「平成27年5月26日 産経新聞」記事

永遠の四一産経新聞記事

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福山歩兵第41連隊

現在の緑町公園と商業施設ココローズは旧日本陸軍の歩兵連隊「福山兵営」跡地であり、明治41年に歩兵第41連隊が現在の企業誘致の形で広島からこの地に転営し、備後の郷土部隊として福山の発展に寄与し、大正5年の福山市の市制施行の原点となった。

昭和12年、歩兵第41連隊が支那事変に出動後、兵営は41連隊補充隊として応召兵の教育に使われた。また新たに歩兵第141連隊、歩兵第232連隊がこの兵営で新編成された。その他この兵営に駐留した部隊は、西部第62部隊、西部第63部隊、船舶砲兵第1連隊、船舶機関砲第1連隊である。中でも歩兵第41連隊はマレー作戦をはじめ多数の激戦地に赴き、東部ニューギニアとフィリピン・レイテ島において2度全滅したことにより、日本陸軍史上最も酷使された悲運の連隊と言われている。

戦後は福山空襲で焼失した学校・官庁等が兵舎を利用し、後に広島大学福山分校、広島大学附属福山中・高等学校、福山市役所仮庁舎、緑町公園、そしてサンピア福山閉館後にココローズがオープンし、兵営跡地は大きく様変わりした。しかし、この地から多くの若者が出征し多数戦死したその歴史の延長に現在の福山市の発展があることを忘れてはならない。

福山市は昭和55年10月19日にレイテ島タクロバン市と友好親善都市提携を結んだが、提携30周年(平成22年11月)に来日されたタクロバン市のクリスティーナ・G・ロマルデス議員によりこの「交流発祥の地」に記念植樹が行われた。また。平成28年3月(市政施行100周年)には福山市遺族会の尽力により、JA福山に仮設置してあった「歩兵第四十一連隊跡」記念碑と、当時の西門の門柱が兵営跡地に移設された。

福山歩兵第41連隊場所 福山歩兵第41連隊場所

兵営跡地新旧地図(クリックで拡大地図表示)

<歩兵第四十一連隊・歴史の大要>

歩兵第41連隊は、明治29年に広島11連隊の兄弟連隊として広島市で創設された。明治41年7月20日に深安郡福山町の当地に転営したが、これは大正五年の福山市市制施行の原点となった。

当時の福山町は人口わずか1万8000余、工業もまだ発達せず、商業においても旧城下町の需要を満たすだけの状況にすぎなかった。そこで町当局は、明治39年に第17師団(岡山)増設の情報を得るや、軍隊を誘致することによって商工業の進展と民風の作興をもたらし、岡山と広島の中間における将来都市の建設を企図して運動をはじめた。そして町民より寄付を募り、数万円の金を寄付してこの転営事業を助けたのである。

かくして41連隊の転営が決まり、あわせて連隊区司令部と福山憲兵分隊(現・御園幼稚園)、福山衛生病院(現・JA福山)が設置されることになった。連隊は昭和20年7月レイテ島において軍旗と共に玉砕するまで49年間の歴史を有した備後の郷土部隊であった。

この間の歴史を一言にして言えば、実に精強にて武勲に輝きながら、悲運の連隊であったと言う他はない。悲運とは、全般の情況および戦勢上、いかなる名指揮官が指揮しても連隊程度の戦力では打開できない運命のことである。

日露戦争から大東亜戦争終結までの間、41連隊在籍の約7000名余の将兵が祖国に殉じた。その戦没者名簿を碑の後方石室に納め、末永くその名が後世に伝えるとともに、多くの市民が「反戦平和を歴史に学ぶ」ことを切望する。

一、創立 明治29年12月1日
二、明治天皇より軍旗拝受 明治31年3月27日
三、徴募管区(徴兵された当時の行政区分)
備後二市(福山、尾道)八郡(御調、世羅、甲奴、神石、芦品、沼隈、深安、比婆)安芸二郡(豊田、賀茂)
四、戦役参加

1、北清事変
明治33年7月11日、在清国日本公使館および居留民の保護のため、宇品港出港、大小14の戦闘に参加し、34年7月22日凱旋した。戦死将校3、下士卒63、負傷将校5、下士卒134

2、日露戦役
明治37年5月15日、宇品港出港、得利寺・蓋平・小紅旗堡・大石橋、析木城・遼陽・沙河・黒溝台・奉天等の諸会戦に参加し、師団の骨幹として各地に善戦して武勲に輝いた。

特に37年10月の沙河会戦の際は第二・第四軍の間隙補てんの命を受け、要点・万宝山を占領したが、全戦線の突角となって敵の強力な逆襲を受け、遂に左翼後尾連隊が突破せられたために、夜間背後から敵の急襲を受け、連隊長以下多数の戦死傷者を出した。しかし軍旗は連隊長の適切な処置により無事であり、第一線部隊は奮戦よく万宝山を死守した後、命によって後退した。

連隊は10月16日を万宝山記念日として休日とし、営庭には樋口季一郎・第17代連隊長が「万宝山記念碑」を建立して先輩の偉勲を称えた。

明治38年5月10日より7月2日まで昌図付近の守備に任ず。39年1月3日凱旋、戦死将校28、下士卒730、負傷将校131、下士卒2、790

3、臨時派遣(満州事変)
昭和6年12月18日、編成令に依り、第二大隊と機関銃中隊が第五師団臨時派遣隊に加わり、天津に出動する。

4、支那事変
昭和12年7月27日動員下令、山田鐵二郎連隊長以下、8月1日宇品出港、奉天を経て北支那・北京に至り、直ちに八達嶺付近・万里の長城戦に参加した。引き続き河北省・淶源の戦闘の後に保定・定州に前進、同地より反転、国崎支隊に入り、塘活より乗船、杭州湾金山衛城付近にて上陸作戦、南京攻略戦に参加した。

昭和13年1月13日、青島に上陸し徐州会戦に参加、9月に青島帰着、10月18日に第21軍に入り、バイアス湾上陸作戦、南支那作戦に参加、12月17日に広東出発、13日に青島に上陸した。このように41連隊は「敵前上陸専門部隊」として米軍の海兵隊的存在であった。

昭和14年1月より9月まで、東部魯北粛正作戦、9月14日、ノモンハン事件のため大連に上陸し同地駐屯、10月27日大連出港、11月15日、南支欽州湾上陸作戦、賓陽会戦に参加する。

昭和15年9月~10月、北部仏印進駐、11月ハノイ経由ハイフォンより上海に転進、同地において自動車編成(機械化部隊)に改編した。

昭和16年2月、呂号作戦による訓練、4月、淅東作戦のため寧波に上陸、渓口鎮にて蒋介石の生家を占領する。11月6日、南方軍の戦闘序列に入り、上海より海南島の三亜港に集結し次期作戦に備えた。

5、大東亜戦争
昭和16年12月8日、第25軍(山下奉文軍司令官)第5師団(鯉兵団)に属し、タイ国シンゴラ上陸作戦、引き続きマレー作戦に参加する。ジットラライン、カンパルの堅陣、ゲマスで豪軍の待ち伏せ攻撃を受ける等数々の激戦を突破し、2月1日、ジョホールバルに進出した。

2月9日、ジョホール水道を敵前渡河し、ブキテマ高地における英軍との激戦を制して、昭和17年2月15日、東洋のジブラルタルと呼ばれたシンガポールを占領した。これは銀輪部隊による「マレー電撃作戦」と呼ばれ、大東亜戦争緒戦における大勝利であった。

同年3月、河村支隊の編成に入り、フィリピンに前進、パナイ島・ミンダナオ島の勘定作戦(ゲリラ討伐)に従事する。

同年7月、米・豪軍の拠点ポートモレスビー攻略作戦のため南海支隊(高知144連隊・独立工兵15連隊・福山41連隊)の編成に入り、フィリピン発ラバウルを経て8月21日にニューギニアのバサブアに上陸(総員1、883名)

武器・弾薬・食料20日分を背負い、ココダを経由して人跡未踏のジャングルにおける戦闘により豪軍を撃破しつつ、9月2日に標高四千米級の高峰が連なるスタンレー山脈の分水嶺を占領した。

引き続きポートモレスビーに向かい前進、9月16日についに高知144連隊と共にイオリバイワを占領し、はるかにポートモレスビーの灯を遠望した。懸軍万里、長躯遠征、故国より5100キロ、オーエンスタンレーの頂上に日本軍が進出したことは、戦争の良否は別として日本史上に残されるべき史実である。

9月16日、反転命令によりイオリバイワより反転、ココダにて敵に退路を遮断されクムシ川の激流を渡河する際に多くの犠牲者を出した。

11月28日にギルワ陣地の守備に就く。西のバサブア守備隊と東のブナ守備隊が全滅する中、ギルワ陣地は敵の包囲下、弾薬・食料が底を尽きながらも奮戦し全滅寸前となる。

昭和18年1月20日、南海支隊のクムシ川河口への後退命令により敵中を突破し、軍旗を奉じて1月29日にクムシ川河口に集結を完了する。次いで18年6月、ラバウルに集結する。(生存者200名弱)

昭和18年9月2日、地獄の戦場・ニューギニアより朝鮮・平壌に復員して30師団(豹兵団)の隷下に入る。中四国地方、朝鮮半島より兵員を補充し、連隊再編成に努める。

昭和19年5月8日、平壌発、フィリピンに前進し、5月25日にミンダナオ島の警備に入る。第三大隊は終戦までミンダナオ島で組織的戦闘を継続した。

10月20日にマッカーサー率いる米軍がレイテ島に上陸するや、援軍のため10月26日に連隊主力(第一・二大隊約2500名)はレイテ島オルモックに急行した。リモン峠を越えてタクロバンに向けて前進中、ハロ付近にて米・第24師団34連隊と遭遇戦となった。正確無比な速射砲射撃により米戦車の砲身に撃ち込み二両を撃破したが、戦況不利にして11月1日にカリガラ西方の517高地(ミノロ山)付近に後退・集結した。

その後、脊梁山脈(716高地周辺)においてゲリラ戦を展開し、米・第一騎兵師団の補給路は寸断され、米軍は716高地を「飢餓の尾根」と名付けるほど苦戦を強いられた。12月23日、脊梁山脈よりリボンガオ付近に下山しマタコブに向けて転進、残存兵力250名。

昭和20年1月、カンギポット山麓のカタブカン台地に集結し、セブ島に転進した第一師団の後任として残存部隊の指揮を取る。セブ島への転進に望みをかけて長期自活自戦態勢をなすが、迎えの船は来ず「捨てられた戦場」となり、6月頃の人員は約100名となった。

7月15日頃、ビリヤバ北方20キロ(レイテ富士近く)にて、炭谷鷹義連隊長は最後まで軍旗を奉持した中村鎮大通信中隊長他と共に軍旗を奉焼して玉砕したと推定される。明治29年の連隊創立以来、じつに49年にして歴史の幕を閉じた。

戦後、連隊関係者は当地に連隊の記念碑を建立することを切望したが叶わず、昭和53年に衛生病院跡地であるJA福山に記念碑を建立した。市制施行百周年を期して福山市遺族会の尽力により軍旗拝受記念の良き日に本来の跡地への移設が実現した。

平成28年3月27日
福山市議会議員 大田祐介

漫画『奇跡の将軍 樋口 季一郎』


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フィリピン レイテ島 タクロバン市訪問

『大田ゆうすけブログ』の記事にリンクしています。

シンガポール・マレー半島

ニューギニア慰霊の旅

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